照明が静かに落ち、テーブルに置かれたキャンドルの灯りがほのかに揺らめく。琥珀色の焔が幻想的に手元を照らすが、一抹の不安が過ぎる。
果たして、訝しげに曄を見上げた麻理の耳に静かなピアノの音色が届いた。
やわらかい音色が、ゆっくりと何かを誘うように音を紡いでいく。そして、それを追うようにヴァイオリンの調べが緩やかに流れはじめた。耳に馴染むその音色は、誰もが一度は耳にしたことのある曲―――『アヴェ・マリア』
間地切られた衝立の陰から、その奏者が姿を現す。ゆっくりとしたヴァイオリンの調べに合わせるかのように、麻理たちの坐るテーブルのほうへと歩を進める。
なぜ?
最初に湧いたのは疑問。
どうして?
次に襲ったのは驚き。
目の前に現われたのは、大きな身体に不釣合いなほど小さなヴァイオリンを乗せて、赤らんだ高い鼻が愛嬌のある老紳士、そう、先ほどまでコンサートホールでその名器を奏でていたR・キュッヒル、その人だった。
驚きと躊躇いと、戸惑いと嬉しさに、麻理の身体が金縛りにでもあったかのように固まってしまう。手にしていたはずのスプーンはいつの間にかプレートの上に落ち、もう一方の手で曄の手をしっかりと握りしめていた。その手のひらは微かに震え、興奮と戸惑いでほんのり汗ばんでいる。
「よう・・・」
声がかすれる。目の前の事実が、まだ信じられなかった。
分刻みで決められているスケジュールを動くような著名な天才ヴァイオリニストが、なぜここにいるのか。今、自分のためだけにその音を響かせ、奏でているのか。
悲しいような優しい調べが麻理を包みこむ。魂を揺さぶり、自分を絡めとって放さない。憂いを帯びたヴァイオリンの音色が、これまでの彼の人生を許すように奏でられる。生まれてきたことを、生きてきたことを、これほど神に感謝したことはなかった。
「曄・・・おねがい・・・キスして・・・」
ここがどこで、自分たちが何ものなのか、そんなことはどうでも良かった。人がいるとか、誰かが見ているとか、そんな迷いは必要ない。抱きしめて欲しい。いま、この震える胸をつなぎとめていて欲しい。
そっと椅子ごと身体を寄せると、曄はそのやわらかい唇に触れた。欲を滾らせるくちづけではなく、彼を愛しむ優しいキス。頬をつたう麻理の涙が重なりあったふたりの唇を濡らす。
悲しくはない。
寂しいはずがない。
彼がいる。曄が自分を包んでくれる。
与えられる喜びも、彼の温もりも、いまは、いまだけは自分だけのもの。
最高の日―――
最愛の人に包まれて、大好きな人の演奏に感動して、美味しい料理とワイン。満たされていく幸福感に麻理は酔いしれた。
永い余韻を惜しむように音が消えてしまうと、ふたりはようやくその身体を離した。
「Alles Gute zum Geburtstag. オタンジョビ オメデト ゴザイマス。」
「ありがとう。ダンケ・シェン」
キュッヒル氏は、日本にまたひとり素敵な友人ができて嬉しいと麻理に伝えた。予定外に美味しいご馳走と自分の演奏を喜んでくれたことに礼を言う。
流暢な英語が二人の間を飛び交う。ほんの僅かではあったが、ふたりが互いを湛えあうには十分な会話が楽しめた。
「愛しなさい」と彼は言った。「自ら愛することによって愛は得られる。」
彼が麻理の瞳の奥に感じたものがなんだったのか、曄にはわからない。けれど、その言葉に麻理は深く頷いていた。
お別れに、差し延べられた手は、ごつく大きなグローブのようだった。とてもその指先からあの繊細な曲が生まれてくるとは思えない。それでも、彼の手は温かく、優しいぬくもりに溢れている。
キュッヒル氏がにっこりと微笑んで一通の封筒を麻理に渡す。
「私の友人からです。マリアさん、また、お会いしましょう。」
ウィンクをするキュッヒル氏は、偉大なるアーティストと言うより、茶目っ気たっぷりの好々爺のようだった。
「あ・・・ まだ、信じ・・られない・・・。どういうこと? どうして?」
キュッヒル氏がテーブルを去ると、興奮気味に麻理が喋りだした。アルコールとその興奮で頬が赤みを増し、潤んだ瞳がこぼれそうなほどに見開かれている。
震えてる麻理の手を抱きしめると、ようやく曄はことの次第を話しはじめた。
イタリアを立つとき、すでにジジは友人でもあるキュッヒル氏に連絡を取っていた。麻理の誕生日が近いので、彼が大好きだというキュッヒル氏の曲をプレゼントできないかと考えていたのだ。偶然にも、そのころキュッヒル氏が日本で小さなコンサートを開くという。日本の地理はわからなかったが、とりあえずそのコンサートのチケットを二枚確保していた。
ところが、そのコンサートを前に帰国を余儀なくされ、彼は曄にそのチケットを譲った。そこまでなら、ごく普通の出来事で終わるはずだったのだが、偶然はふたりを最高の晩餐へと誘ってくれた。
このレストランのオーナーは大島の古くからの友人で、彼女もこの一件に協力を惜しまなかった。大島の口利きで、わがままな時間帯に予約を入れてもらう。しかし、よく聴くと、前もって連絡があれば、場合によっては営業外の予約も受け付けてくれるようだった。
そして、曄はコネクションというものをはじめて利用した。
まず、コンサート会場の受付でジジからのメッセージをキュッヒル氏に渡してもらう。そこには「このメッセージを持ってきた男の相談にのって欲しい」と書かれていたらしい。通訳を通じて、近くのレストランで友人のために弾いてくれないかと頼みこんでみる。ジジの友人の誕生日だというとキュッヒル氏は二つ返事で承諾してくれた。
レストランの場所を教えて曲目をリクエストする。彼の登場時間はお店の人が取り計らってくれた。
そうして、麻理へのサプライズ・バースデーが成功した。
「でも、どうして『アヴェ・マリア』だったの?」
部屋に戻りシャワーを浴び終えると、ようやく興奮が落ち着いたのか、麻理が尋ねた。
「ラテン語で『おめでとう、マリア』って意味なんだろ?お前、ジジにそう呼ばれてたし。」
曄の一言に、「マリアじゃない」とちょっと抗議したが、それでも、麻理は「ありがとう」と曄にくちづけた。
肌がぴたりと重なり合う。伝わる熱は、ひんやりとしたシーツの中で心地よく互いを温めあう。交わすくちづけ、絡まる四肢が二人をひとつに溶けあわせていく。
「Happy birthday, Asato. 二十二歳おめでとう。」
「ありがとう、曄。I LOVE you....」
FINE
NATALE 2 へ
果たして、訝しげに曄を見上げた麻理の耳に静かなピアノの音色が届いた。
やわらかい音色が、ゆっくりと何かを誘うように音を紡いでいく。そして、それを追うようにヴァイオリンの調べが緩やかに流れはじめた。耳に馴染むその音色は、誰もが一度は耳にしたことのある曲―――『アヴェ・マリア』
間地切られた衝立の陰から、その奏者が姿を現す。ゆっくりとしたヴァイオリンの調べに合わせるかのように、麻理たちの坐るテーブルのほうへと歩を進める。
なぜ?
最初に湧いたのは疑問。
どうして?
次に襲ったのは驚き。
目の前に現われたのは、大きな身体に不釣合いなほど小さなヴァイオリンを乗せて、赤らんだ高い鼻が愛嬌のある老紳士、そう、先ほどまでコンサートホールでその名器を奏でていたR・キュッヒル、その人だった。
驚きと躊躇いと、戸惑いと嬉しさに、麻理の身体が金縛りにでもあったかのように固まってしまう。手にしていたはずのスプーンはいつの間にかプレートの上に落ち、もう一方の手で曄の手をしっかりと握りしめていた。その手のひらは微かに震え、興奮と戸惑いでほんのり汗ばんでいる。
「よう・・・」
声がかすれる。目の前の事実が、まだ信じられなかった。
分刻みで決められているスケジュールを動くような著名な天才ヴァイオリニストが、なぜここにいるのか。今、自分のためだけにその音を響かせ、奏でているのか。
悲しいような優しい調べが麻理を包みこむ。魂を揺さぶり、自分を絡めとって放さない。憂いを帯びたヴァイオリンの音色が、これまでの彼の人生を許すように奏でられる。生まれてきたことを、生きてきたことを、これほど神に感謝したことはなかった。
「曄・・・おねがい・・・キスして・・・」
ここがどこで、自分たちが何ものなのか、そんなことはどうでも良かった。人がいるとか、誰かが見ているとか、そんな迷いは必要ない。抱きしめて欲しい。いま、この震える胸をつなぎとめていて欲しい。
そっと椅子ごと身体を寄せると、曄はそのやわらかい唇に触れた。欲を滾らせるくちづけではなく、彼を愛しむ優しいキス。頬をつたう麻理の涙が重なりあったふたりの唇を濡らす。
悲しくはない。
寂しいはずがない。
彼がいる。曄が自分を包んでくれる。
与えられる喜びも、彼の温もりも、いまは、いまだけは自分だけのもの。
最高の日―――
最愛の人に包まれて、大好きな人の演奏に感動して、美味しい料理とワイン。満たされていく幸福感に麻理は酔いしれた。
永い余韻を惜しむように音が消えてしまうと、ふたりはようやくその身体を離した。
「Alles Gute zum Geburtstag. オタンジョビ オメデト ゴザイマス。」
「ありがとう。ダンケ・シェン」
キュッヒル氏は、日本にまたひとり素敵な友人ができて嬉しいと麻理に伝えた。予定外に美味しいご馳走と自分の演奏を喜んでくれたことに礼を言う。
流暢な英語が二人の間を飛び交う。ほんの僅かではあったが、ふたりが互いを湛えあうには十分な会話が楽しめた。
「愛しなさい」と彼は言った。「自ら愛することによって愛は得られる。」
彼が麻理の瞳の奥に感じたものがなんだったのか、曄にはわからない。けれど、その言葉に麻理は深く頷いていた。
お別れに、差し延べられた手は、ごつく大きなグローブのようだった。とてもその指先からあの繊細な曲が生まれてくるとは思えない。それでも、彼の手は温かく、優しいぬくもりに溢れている。
キュッヒル氏がにっこりと微笑んで一通の封筒を麻理に渡す。
「私の友人からです。マリアさん、また、お会いしましょう。」
ウィンクをするキュッヒル氏は、偉大なるアーティストと言うより、茶目っ気たっぷりの好々爺のようだった。
「あ・・・ まだ、信じ・・られない・・・。どういうこと? どうして?」
キュッヒル氏がテーブルを去ると、興奮気味に麻理が喋りだした。アルコールとその興奮で頬が赤みを増し、潤んだ瞳がこぼれそうなほどに見開かれている。
震えてる麻理の手を抱きしめると、ようやく曄はことの次第を話しはじめた。
イタリアを立つとき、すでにジジは友人でもあるキュッヒル氏に連絡を取っていた。麻理の誕生日が近いので、彼が大好きだというキュッヒル氏の曲をプレゼントできないかと考えていたのだ。偶然にも、そのころキュッヒル氏が日本で小さなコンサートを開くという。日本の地理はわからなかったが、とりあえずそのコンサートのチケットを二枚確保していた。
ところが、そのコンサートを前に帰国を余儀なくされ、彼は曄にそのチケットを譲った。そこまでなら、ごく普通の出来事で終わるはずだったのだが、偶然はふたりを最高の晩餐へと誘ってくれた。
このレストランのオーナーは大島の古くからの友人で、彼女もこの一件に協力を惜しまなかった。大島の口利きで、わがままな時間帯に予約を入れてもらう。しかし、よく聴くと、前もって連絡があれば、場合によっては営業外の予約も受け付けてくれるようだった。
そして、曄はコネクションというものをはじめて利用した。
まず、コンサート会場の受付でジジからのメッセージをキュッヒル氏に渡してもらう。そこには「このメッセージを持ってきた男の相談にのって欲しい」と書かれていたらしい。通訳を通じて、近くのレストランで友人のために弾いてくれないかと頼みこんでみる。ジジの友人の誕生日だというとキュッヒル氏は二つ返事で承諾してくれた。
レストランの場所を教えて曲目をリクエストする。彼の登場時間はお店の人が取り計らってくれた。
そうして、麻理へのサプライズ・バースデーが成功した。
「でも、どうして『アヴェ・マリア』だったの?」
部屋に戻りシャワーを浴び終えると、ようやく興奮が落ち着いたのか、麻理が尋ねた。
「ラテン語で『おめでとう、マリア』って意味なんだろ?お前、ジジにそう呼ばれてたし。」
曄の一言に、「マリアじゃない」とちょっと抗議したが、それでも、麻理は「ありがとう」と曄にくちづけた。
肌がぴたりと重なり合う。伝わる熱は、ひんやりとしたシーツの中で心地よく互いを温めあう。交わすくちづけ、絡まる四肢が二人をひとつに溶けあわせていく。
「Happy birthday, Asato. 二十二歳おめでとう。」
「ありがとう、曄。I LOVE you....」
FINE
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Comments
No title
お返事
蛍さま
コメントありがとうございます♪
こっちから先でも十分ご理解いただけたようで、嬉しく思います。
本編は暗くてウツウツしてるのに、お誕生企画だからと甘々にしてしまいました(^^ゞ
と言うより、久々すぎて本編忘れかけてる・・・?(大汗)
麻理が受けなのは間違いようもない事実ですね(笑)
とてもじゃないけどリバも無理。
でも、いつでも誘ってるのは麻理のような気がしています;;
時間を見て、1分でわかる(?)Requiemでも載せようかと思いますので、面倒な時はそちらでも・・・(でもいつ載せる?)
コメントありがとうございます♪
こっちから先でも十分ご理解いただけたようで、嬉しく思います。
本編は暗くてウツウツしてるのに、お誕生企画だからと甘々にしてしまいました(^^ゞ
と言うより、久々すぎて本編忘れかけてる・・・?(大汗)
麻理が受けなのは間違いようもない事実ですね(笑)
とてもじゃないけどリバも無理。
でも、いつでも誘ってるのは麻理のような気がしています;;
時間を見て、1分でわかる(?)Requiemでも載せようかと思いますので、面倒な時はそちらでも・・・(でもいつ載せる?)
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こういう攻めが受けにベタ惚れなお話、大好きです♪
(麻里が受じゃなかったらごめんなさい;;)
これから本編を読ませて頂くのが楽しみです〜v